また不幸な災害のニュースが流れた。「これまでに経験したことのないような大雨」が九州を襲い、河川の氾濫と土砂崩れで家屋ばかりでなく、17人も亡くなられた。
なんとも痛ましくて、言葉がないが、私自身も同じような経験を昭和50年にした。
梅雨時の大雨で、家の土台を支えていたコンクリートの擁壁が崩れたのである。
その時は、ほんとうに周りの皆さま、職場の方々に、いろいろと助けていただいて、そのことは今も忘れないようにしている。
不幸中の幸いというか、人命に被害がなかったのが救いだった。
いま思えば、山を切り開いて造成した、そのような土地に家をもとめたのが、己の不徳の致すところであった。
不運不幸は他人事ではない。いつわが身に、わが家族に起きても不思議ではない。
いつの頃からか、私は良寛のことばを教訓にするようになった。1828年禅師71歳のとき、新潟で大地震があり、多数の死傷者が出た。末の子を失った友人に送った手紙と伝えられている。
以下ネットからコピーした。
地震は信(まこと)に大変に候(そうろう)。
野僧(※良寛のこと)草庵何事もなく候。
親類中、死人もなくめでたく存じ候。
うちつけに 死なば死なずて 存(ながら)へて
かかる憂き目を 見るがわびしさ
(※大意 − 突然みんなと一緒に死んでしまえばよかったのだが、なまじ生き残って、こんなつらい有様を見るのは痛ましいことだ。)
しかし災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
死ぬ時節には死ぬがよく候。
是はこれ災難をのがるる妙法にて候。 かしこ