お話おじさん′終活記

はや人生はラストステージ、いつのまにか年が過ぎ、いまがいちばん自由で、楽しい。

自分史12

付属に入学して、最初の担任は、若かりし山内太郎先生(後に東大教授)で、母の死後、お悔やみにわざわざ新井宿の自宅まで来てくれた。しかし、過労か、まもなく結核で療養生活に入ったため、大槻健先生(後に早大教授)に代わった。中3の通信簿に「落ちつきは良し、好感惜しむらくは、明るさに乏し、もっと楽な気持ちで人生を眺めよ」と言葉を寄せてくれた。

的を得ていたと思う。というのは、その後の高校生活では、家庭的にもいろいろあって、将来の人生を虚無的にとらえ、自殺ばかり考えたり、時に人を揶揄するなど、躁うつ状態にたびたび陥っている。

事実として、12歳から軍隊教育を受けた三番目の兄は、いまは統合失調症というが、精神分裂症と東大病院で診断され、電気ショック療法まで受けていた。

現今のDNA解析をすれば、明らかになると思うが、わが家系は、精神異常に関係する遺伝子を多分に受け継いでいると、自戒してきた。ネクラであることを意識していたので、できるだけ明るく明るく振る舞うようにつとめてきたつもりである。

その点については、家庭生活に恵まれ、苦労知らずに、明るく育った家内と、縁あっていっしょになれたことが、わが人生の幸せに通じている。