お話おじさん′終活記

はや人生はラストステージ、いつのまにか年が過ぎ、いまがいちばん自由で、楽しい。

自分史11

戦災で焼け野原になった東京見物に、長兄が返ってきた私の歓迎にか、新橋の闇市に連れて行ってくれた。
当時いちばんと言われていたそうだが、新橋駅前の焼け野原に、露天でおおぜいの物売りが並んで、マーケットになっていた。
見て回るだけだったので、何を売っていたかあまり覚えがないが、一つだけ印象に残っている。一人の男の周辺に客が寄っていた。ブリキの一斗缶にただのおにぎりが詰まっていて、一個10円だったか、それだけ売っている闇屋だった・・・自分も食べたかったからに違いない。

北千束の家は、家主が疎開先から戻ってくるので、明け渡すことになり、こんどは同じ大森区(現大田区)の新井宿に引っ越した。数軒先に村岡花子さんの家があって、その前を通学のたびに歩いたが、門はいつも閉まっていたと思う。
5年生で、猿楽小学校から入新井第二小学校に転校し、同校を卒業して、義務教育となった新制中学にそのまま入った。

しかし、東大にも付属中学校ができることになり、1・2年生同時募集の願書を教師をしていた次兄がもらってきて、ただ受けたところ、ただ合格した。
本郷での入学式で、海後教育学部長が明かした話だが、実験学校として中間層の子どもを教育して、どこまで能力を伸ばせるかをテーマに一クラス設けたという。だから、できる者とできない者が落ち、中間が合格するという、前代未聞の入学試験だったという。
だが実際に入ってみると、私を含めて数人を除くと、まあいいとこのお坊ちゃんばかりだった。

これが小学校卒業の記念写真。