お話おじさん′終活記

はや人生はラストステージ、いつのまにか年が過ぎ、いまがいちばん自由で、楽しい。

自分史8

父に比べると母は、中学2年まで生きていたし、子どもの頃は、外で遊んでいる時以外は、ほとんど行動を共にしていたから、記憶に残っていることは多い。いちばん身近な存在だったことに間違いない。
いちばんいい例が、小学5年(学童疎開の半年は除き)まで一つ床に寝ていたことで、兄たちが「まだ一緒に寝ている」とあまりにも冷かすので、6年になって別にしたが、その訳を私は子どもながらに分かっていた。
父を亡くした母は寂しかったのである。末っ子をいつも手元においていたかったのである。それを十分感じていたので、やっと6年生になって「独りで寝たい」といった。母は「分かった」といったが、内心はどうだったのか・・・
母は苦労したと思う。父亡き後、子5人の男ばかりをかかえて、食わせ、所帯を切り盛りしたのだから。遺産はなかったが、ただ、長男と次男は成人していて、会社員と小学教師だったので、二人の収入が一家を支えた。三男は幼年学校で寮生活、四男と五男(私)は学校に通っていた。
いちばんひどかったのは、終戦後の食料難時代で、軍需工場の長男は失職し、家の物を持ちだしては金にするブローカーまがいの無職生活。士官学校生だった三男は家に戻り、大学に入って出たものの、就職できず・・・その中で、母はまともに食うものを食わずに、腸閉塞になり死んだ。学校から帰宅したとき、家の前に一台のリアカーが目に映ったが葬儀屋だった。

兄嫁といっしょの若かりし頃の写真がある。