お話おじさん′終活記

はや人生はラストステージ、いつのまにか年が過ぎ、いまがいちばん自由で、楽しい。

自分史5

運よく、渋谷では空襲に遭わなかったが、空襲のことは忘れられない。B29が来襲すると、東横デパート屋上のサイレンが鳴った。はじめは警戒警報、そして空襲警報になった。警戒警報がなると、防空壕に走ったが、それもしばらくの間で、毎晩のように来襲するので、慣れっこになってしまい、避難せずに、外に出て眺めたりした。落とされた焼夷爆弾の束が、上空で花火のように散る光景が脳裏に焼き付いている。

アメリカは日本の家が木と紙なので、日本人皆殺しの焦土作戦では、円周上に油の詰まった焼夷爆弾*を落としていった。円内の地域は助からない。大空襲の時は、防空壕に入った人はみな焼死し、助かった人は隅田川に飛び込んで、もぐっては熱さをしのいだ。その川の水まで温かくなったという。

一度昼間に艦載機のグラマン戦闘機が、突然来襲したことがあった。そのとき母親は二階でどぶろくをしぼっていた。私が駆け付けたら、そのまま「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ・・・」といいながら、平然と手を休めなかった。
母親は度胸が据わっていたが、子どもはだれも似なかったのは残念。

そんなわけで、渋谷がやられるのも時間の問題なので、私一人は富山へ、家族は大森へ移転した。

写真は、学童疎開先でのただ一枚の記念写真。前列中央の金ボタンが私。