お話おじさん′終活記

はや人生はラストステージ、いつのまにか年が過ぎ、いまがいちばん自由で、楽しい。

自分史4

遊んでばかりいて、6才になり、近くの兄と同じ猿楽小学校(国民学校)に入学した。担任は篠原先生という1年生専門の先生で、兄4人はみなデキタのに、はじめてデキナイのが入ってきて、おどろいたそう。3月生まれのハンデもあって、3年でやっとみなに追いついた。手元に、初めて遠足に行って、多摩川の土手で撮った写真が残っている。

入学したのが昭和16年(1941)なので、その12月に大東亜戦争(日米開戦)が始まった。この戦争は4年続いたので、わが小学校時代は戦争一色だった。はじめは調子がよく、シンガポール陥落の提灯行列に参加したことや渋谷駅に花電車が出たことなど覚えている。

次第に戦況が悪くなり、昭和19年(1944)のサイパン島玉砕以降は、日本本土がアメリカの爆撃機B29の飛行距離下に入ったため、おちおちしていられなくなった。調べたら、その11月1日だったが、昼間に東京1万メートルの上空をB29が一機がゆうゆうと飛んでいくのを見た。高射砲が打たれたが、まったく届かなかったことまで印象にある。

翌20年(1945)になって、3月10日には一夜で10万人以上が殺された東京大空襲があった。渋谷は圏外で助かったが、アメリカは焦土作戦に出たため、毎晩のように空襲があって、夜眠れず、東京にいられなくなった。
5年生になった5月、私一人家族と別れを告げて、富山県への学童疎開に加わった。