お話おじさん′終活記

はや人生はラストステージ、いつのまにか年が過ぎ、いまがいちばん自由で、楽しい。

酒のこと

朝一番に家内は新聞の折り込みチラシを見る。お店のチラシだ。

本日限りの特売に養命酒があるから、買ってきてほしいという。よくこういう使い走りをさせられる。
帰りにシメノに寄って買ってきた。養命酒には訳がある。

足が冷えるというので、だいぶ前から、家内に寝酒として養命酒をすすめたのは私・・・それから飲み続けているようだ。

酒は、ご他聞にもれず、私も好きで晩酌は欠かさないほう。ただ糖尿になってからは、飲む量を自重している。今は、蒸留酒ならOKという糖質制限食にしているので、焼酎をお湯割りで楽しんでいる。

家系的に、亡き両親は二人とも酒好きときている。しかし男ばかり5人の子どもの内、好きなのは3人、2人は飲めなくはないが、好まない。

とくに、父親と長男は大酒飲みだった。アメリカと戦争をはじめた昔々、統制経済になって、酒が手に入らなくなった。そこで器用な母親は、親戚のおばあさんにどぶろく造りを習ってきて、家でこっそり造りはじめた。失敗を重ね、上手に造れるようになった。

父親は、そのどぶろくを昼夜なくたらふく飲み、こたつに入って昼寝しながら、高いびきをかき、脳溢血で死んでいった。その場に居合わせたのは小学2年生の私と母親だけだった。
大往生といえなくもない、幸せな死に方だったと思う。

大酒飲みの福沢諭吉は、福翁自伝で5,6歳で酒の味を覚えたと書いている。私もそれに近かった。おやつ代わりに、ときどき母親にカルピスだといって、どぶろくを薄めて飲ませてもらった。その後、私は集団疎開で家を離れ、酒の味と縁を切ったが、ときに酒が飲みたくなったことを子ども心に覚えている。

戦争が激しくなって、母親もどぶろく造りを止めてたが、戦後また造りはじめた。
母は強しというが、父亡き後の母と子ども5人の6人暮らしを支えるためだった。

当時長男は放蕩生活を送っていて、家の物を持ち出しては金に換え、母親とのけんかが絶えなかった。
教員をしていた次男の薄給と、母親がどぶろくを造り、軍隊から帰ってきた3男が、そのどぶろくをこっそりカストリ屋に売った金とで、一家6人東京での困難な戦後生活を乗り切ってきたのだった。

母親は、この戦後の貧しい中、昭和23年に腸閉塞で逝った。それから、母のことは、私にずっとつきまとっている。生きている限りそうだろう、忘れることはない。

酒にも、こんな思い出があるので、溺れられない・・・